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”戦争は悲惨”空襲を経験した女性が伝えたい思い「伝えられる時に伝えていかないと」静岡市

終戦から78年。空襲を経験し”普通”であることの幸せを伝えようと語り部として活動する91歳の女性が静岡県静岡市にいる。

◆151人が死亡した清水空襲

澤木昌子さん:
昭和20年7月7日、清水の空襲に遭いました。その時は13歳で、午前0時半から爆撃を受けまして父と一緒に狐ヶ崎の山の上まで逃げました

子供たちに戦争の体験を語る澤木さん

子供たちに戦争の体験を語るのは静岡市に住む澤木昌子さん(91)。澤木さんは78年前、13歳の時に清水空襲を経験した。空から降ってくる無数の焼夷弾によって151人が死亡、276人がケガをしたが、澤木さんは山に避難し無事だった。

◆終戦で知った“普通”の大切さ

清水市(当時)の焼失地を示した地図

しかし清水市(当時)の52%が焼け、楽しみにしていた女学校も焼失した。昭和天皇が終戦を伝えた玉音放送を聞いた時、澤木さんは“普通”であることの大切さを感じたと話す。

学生時代の澤木さん

澤木昌子さん:
これで勉強もできる、トイレにも行ける、お風呂にも入れる、寝ることもできる、勉強もできる。そう思ったら本当に、この“普通”の生活というものが いかに大事か痛切に感じました

「戦争は悲惨なもの」と語り部を続けている

“普通”の生活の大切さ。戦争の体験を聞いた子供たちも平和の大切さについて考えた。

澤木さんの話を熱心に聞く子供たち

中学生:
自分が(当時の澤木さんと)同い年で、同じ年の人たちが今聞いた経験をしたってことで、すごく悲しい歴史だなと思いました

中学生:
今こうして暮らせていることも、ありがたいことなんだなと改めて思いました

膝が痛み立つことも容易ではない

終戦から2023年で78年。戦争の体験を伝えることができる人は年々減り続けている。

1932年生まれの澤木さんも91歳。

息子夫婦が営むカフェの1階で生活しながら語り部の活動をしている。

澤木昌子さん:
膝が痛くてここからも立つことが簡単にできなくて、トイレも座って出すこともできないけど両方につかまるところがあればできますからね、自分で

体が不自由でも中学校や高校に赴き講演に参加する澤木さん。ある思いが原動力だと話す。

澤木昌子さん:
自分が受けたでしょ、戦争を。「ない」「なし」の生活をしていたから、そういうことを世界中の人に、そういう想いをさせたくないというのが願いです。それでやりました

◆伝えていくことが「自分の人生の使命」

78年ぶりに実家周辺を訪れた澤木さん

この日、78年ぶりに空襲の時に避難した道のりをたどった。清水区入江の実家から父親と布団をかぶりながら、大勢の人とともに狐ヶ崎の踏切を越えて逃げたという。

澤木昌子さん:
照明弾が落とされて明るくなりました。早く山のほうまでいかないと爆弾が落とされるということで、駆け足状態で必死に狐ヶ崎の駅の左側を通って山の方へ行きました。(ここに来たのは)初めてです、お父さんと逃げて以来。目をつぶるとお父さんの姿が浮かんできます

当時を振り返り、澤木さんは改めて伝えていくことの大切さを感じ、そして、それが残された自分の人生の使命だと話す。

澤木昌子さん:
私が生きている間は経験したことを子供や中学生・高校生・大人たちに伝えて戦争というものが「こんなに悲惨なものだ」ということを知ってほしいと思います。命は短いですよ。もっともっと命を大事にして伝えられるときに伝えていかないとと思います

91歳の語り部として子供たちに平和な生活を続けてもらうために澤木さんは戦争の悲惨さをこれからも伝え続けていく決意だ。

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