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ノーベル賞確実と言われた物理学者・戸塚洋二 「僕は物理的に消滅するだけ」【幻のノーベル賞より】

2001年、戸塚さんが施設長を務めるスーパーカミオカンデで、装置全体の半数の光センサーが失われる大事故が起きました。

神岡宇宙素粒子研究施設・塩澤眞人教授(現施設長):
あれを見てほぼその日のうちに1年で元に戻す、そういう判断をしたのがすごい。当時の僕から見ると、そもそも元に戻せるか判断が難しい。それをあっという間に決めてスタッフに説明して、世界中に1年で元に戻すとすぐにホームページにあげた。要所要所で大事なことを判断するのが戸塚さんでした

塩澤教授
神岡宇宙素粒子研究施設・塩澤眞人教授(現施設長)

共に現場で戦った仲間の声から浮かび上がる戸塚さんの横顔。そこにあったのは、不屈のリーダーシップでした。

チーム戸塚の奮闘により、スーパーカミオカンデは目標よりも早い、わずか11カ月で運行を再開。神岡の町に再び実験に灯がともりました。ニュートリノ研究は、辛うじて命を保ちます。

白黒の写真。戸塚さんがパソコンの前に立ってモニターを見上げている。
戸塚さんは大事故からの復旧で陣頭指揮をとった

「ハイパーカミオカンデ」へ情熱は続く

小柴さんがノーベル賞を受賞する発見を行ったカミオカンデ。戸塚さんが建設を指揮し、梶田教授がノーベル賞を受賞したスーパーカミオカンデ。そのバトンは現在の塩澤教授に引き継がれ、さらに10倍規模の巨大水槽、約4万本もの光センサーを搭載した未来の観測装置「ハイパーカミオカンデ」の建設へと続いています。

富士高校新聞部・平垣さん:
ハイパーカミオカンデの指揮をとっておられますが、戸塚先生と同じ立場にあってどう感じていますか

新聞部の平垣さんが質問をしている

塩澤施設長:
ハイパーカミオカンデは7年で建設して、この年には実験始めるぞと話すと、間に合わないとみんな簡単に言うんですよ。そういう時に、戸塚さんならどうしていたかなと考える。戸塚さんがやっていたことは身近に見て来たので、僕はヒントはもらっているはずなんですけど

質問に答える塩澤教授を見つめる高校生

現在建設中のハイパーカミオカンデに設置する光センサー。それを製造している静岡県磐田市にある、浜松ホトニクスの工場を訪ねました。

神岡町で見た光電子増倍管よりも性能を増した光センサーが、従業員たちの手によって精巧に作られています。

大きな黄色いガラスの倍増管を運ぶ社員2人
ハイパーカミオカンデで使う光電子増倍管

浜松ホトニクス電子管事業部・永井正太部門長:
これはハイパーカミオカンデ専用品になります

1本数十万円もするハイパーカミオカンデ専用の光電子増倍管。センサーの感度をスーパーカミオカンデ時代の2倍にあげています。

光電子増倍管は薄さと強さを両立するため、熟練工によるガラス管製造から始まります。これを浜松ホトニクスで電子部品と溶接。中を真空状態にして高感度の光センサーができあがります。1日あたり製造できる数はわずか20本ほどです。

ガラス管を吹いて作っている職人

浜松ホトニクス電子管事業部・永井正太部門長:
初代カミオカンデから、スーパーカミオカンデ、ハイパーカミオカンデといま3世代目ですけど、研究者の要求レベルが上がっている。研究者は最高の結果を得ようとがんばっているので当然要求も高い。いかに応えることができるか頑張っています

製造中の光電子倍増感

当時、同レベルの開発技術をもった会社は海外にも数社ありましたが、戸塚さんは国内での製造にこだわり強く推してくれたそうです。

研究者は「経験と勘とハッタリだ」

戸塚さんと開発を共にした袴田さん。

元浜松ホトニクス・袴田敏一さん:
毎週あたらしい改良品を持ち込んで、夜に戸塚先生に測っていただいて、それを数カ月繰り返した。夜に仕事をしておられたので、浜松名物のうなぎパイも持っていかなければということで、試作品と一緒にうなぎパイを持参したことがありました

元浜松ホトニクス社員と戸塚さんがふたり並んで写る写真
戸塚さんんと開発に取り組んだ元・浜松ホトニクスの袴田さん

あの大事故のときも、すぐに現場にかけつけました。

元浜松ホトニクス・袴田敏一さん:
すべての光電子増倍管が壊れたわけじゃない、残っているものもあるんだと。ある程度時間をかければ本数を減らしてでも実験ができるんじゃないかと、みんなに勇気を与える意味で、1日後に実験を再開すると発表されたのではないかと思います。研究者には経験と勘とハッタリと3つの要素が必要なんだと。1年でやるんだということは多少ハッタリで言った可能性はゼロとは言えないんですけどね。昔から戸塚先生はそれを良く言われてたんですよね、経験と勘とハッタリだと

インタビューに答える元浜松ホトニクス・袴田敏一さん
元・浜松ホトニクス 袴田敏一さん

富士高校新聞部の生徒たちは、戸塚さんの人柄を神岡町の人たちにも聞いてみました。

植物の観察を好んだ戸塚さんは、豊かな神岡の自然をとても気に入っていたそうです。そして囲炉裏を囲んで、地元の人と良く語らいました。

囲炉裏を囲んで住民の話を聞く高校生

神岡町の住民・和仁邦雄さん:
戸塚洋二先生は先頭に立って自らパソコンを持ってきて、こんな研究をしていると率先してやっていただいた。非常に分かりやすく、地元では本当にやさしい笑顔を絶やさない先生。ただ研究者の方たちに聞くと、とにかく怖いとおっしゃっていました

研究所で見せていた厳しさとは違う、戸塚さんの穏やかな一面。

高校生の質問に答える和仁邦雄さん

神岡町の住民・和仁さん:
いつも非常にバンカラな感じでワハハと大きな声で笑って、僕は東大の空手部卒業なんだよと、理学部卒業なんですけど冗談で。戸塚先生が歩いていくと文科省の人間たちが部屋に隠れてしまう、怖いと言って。そういったエピソードがある。それぐらい戸塚先生は一生懸命やってみえた

白黒の写真。空手の稽古を見つめる戸塚さん。
戸塚さんは「東大空手部卒業」と話していた

戸塚さんのエピソードは絶えません。戸塚さんは神岡町では有名人です。

清水かつ子さん:
(町で研究者にかわいがられていたネコを)スーパーカミオカンデキャット=SKAT=スキャットと名付けられたんです

ネコを抱えた住民の女性
ネコのエピソードを教えてくれた清水かつ子さん(このネコはSKATではありません)

毎晩のように地元の人と酒を酌み交わし、いつも笑顔だった戸塚さん。しかしこの頃すでに、がんと闘っていました。

科学者として自らのがんを見つめる

戸塚さんの娘、由美さんが、父・洋二さんのことを語ってくれました。

娘・由美さん:
抗がん剤をやっているときは、抗がん剤の時刻が刻一刻と近づいてくるので、嫌だけど行ってくるか、みたいな

車を運転する戸塚さんの娘、由美さん。

娘の由美さんとお会いしたのは戸塚さんの命日、7月10日でした。

娘・由美さん:
この道は父と母の送り迎えをした超思い出の場所。ここに来るとやはり病気と闘っている姿と、仕事に行きたいのに行けない辛さを感じている姿を思い出すかな。よく窓から研究所の方を見てましたね。最後の方は「昔なら歩いて行けたのにな」と言っていましたね

由美さんが子供の頃の写真。父・戸塚洋二さんと母親と3人で写っている。

戸塚さんは忙しい研究の合間を縫って、由美さんをよく山へ連れて行ってくれました。

娘・由美さん:
自分が散歩する中で、この木は保存しないとだめだという木を見つけると、市役所に手紙を書いて保存樹木にしてもらっていました。木が好きなんですよね。

インタビューに答える娘・由美さん

娘・由美さん:
宇宙は広がっていると思う?狭くなっていると思う?数字のゼロってどういう意味だと思う?太陽って地球と何が違うか分かる?とか、そんなのが食事中の会話で、それが普通の家庭じゃないというのは大人になってから知りました。亡くなってからいろんな人の話を聞いて、お父さんがそんなすごい人だとわかりました。知的好奇心が人並以上にあった人だという印象は残っています

光電子倍増管を見る戸塚さんの写真
娘の由美さんは父の印象を「知的好奇心が人並以上」と語る

娘・由美さん:
最終的に父と話していて落ちたところは、死んだらただ無くなるだけだと。輪廻転生もないし自分は物理的に消滅していくだけだと。千の風という歌があるじゃないですか。父はあの歌がすごく嫌いで、自分は死んだら影も形もなくなるので、風になんかなっていないからと言っていました。お墓はあるけど、そこに僕はいませんからと。僕は消滅しているので

インタビューに答える娘・由美さん
戸塚さんは娘・由美さんに「死んだら物理的に“消滅”するだけ」と話していた

がんの進行に伴って、自らの体に起こる現象を戸塚さんは克明に記録していました。科学者として分析し記録し後世に伝える。がんの治療法が確立していない時代、戸塚さんならではの闘い方でした。

白いノートに手書きの文字
戸塚さんががんを記録したノート

亡くなる2週間前、戸塚さんの自宅でインタビューをした科学ライターの緑慎也さん。

科学ライター・緑慎也さん:
科学者としてがんになって、科学者としてがんをとらえるとどうなるかを、見せたかったと思う。がんを分析するために写真を並べて病巣の大きさをくらべて、表にして分析されていたんです

戸塚さんが亡くなる直前にインタビューしたライターの緑さんと写る写真。

緑さんは戸塚さんが亡くなる直前まで取材を続け、亡くなったあともご遺族を支えながら記事を書いてきました。戸塚さんはこの世を去る最期の瞬間まで、宇宙の真理とがんの追求に魂を傾けました。

科学ライター・緑慎也さん:
どこかで自分の体が大事だし、きついので止めてもいいのですが続けるんです。ここまで分析しましたと、ぎりぎりのところまでやって自分のブログで発表するわけです。そこは本当に科学者の“矜持(きょうじ)”。相当強い意志がないとできないことだと思います

インタビューで話す、ライターの緑さん
科学ライター・緑慎也さん

ノーベル賞は幻となっても

そして2008年7月10日、戸塚洋二さんは66歳という若さでこの世を去ります。ノーベル賞確実と言われながらの、早すぎる旅立ちでした。手にすることのなかった、幻のノーベル賞。

Q.もし戸塚先生がご存命であれば、ノーベル賞はどうなったと思うか
梶田隆章教授:

それは当然戸塚先生がノーベル賞を受賞されていたと思います

神岡町の住民・和仁さん:
常にノーベル賞の発表があるときはコメントを用意していたんですよ。受賞おめでとうございますと花火をあげようとか計画していた

元浜松ホトニクス・袴田さん:
ノーベル賞の発表1カ月ぐらい前になると、いろんな報道機関からそろそろ受賞しそうだから準備しておいてもらえませんか、ということでお祝いのコメントを原稿だけ準備した記憶があります

闘病中の戸塚さん

丹念に拾い上げてきた戸塚先輩の足跡をもとに、新聞部では編集会議が始まりました。

新聞部の生徒:
戸塚先生の過去のインタビューを載せて、奥さんのインタビューも載せて、あとヒメシャラの木の話が印象的だったから…

新聞部の編集会議、テーブルを5人の女子生徒が囲む

取材で知ったヒメシャラの木。千葉県にあった戸塚さんの自宅の庭でも、毎年ヒメシャラの木は花を咲かせ、戸塚さんはそれを愛おしそうに眺めていたといいます。

新聞部・平垣実玖さん:
戸塚先生のことを存じ上げなかったんですが、取材を通して少し理解を深められた。新聞部の一員として、知らない人も多いと思うので新聞と言う形で伝えられたらいいなと思います

ヒメシャラの白い花が一輪咲く

戸塚さんの愛したヒメシャラの木は、神岡町の様々な場所に植えられ、今も大切に守られています。そして夏が来るたび花を咲かせ、神岡の町を彩ります。

故・戸塚洋二さん(当時・神岡宇宙素粒子研究施設長):
このスーパーカミオカンデの装置は、今まで私どもが12年観測を行ってきたカミオカンデと比べると数十倍の大きさを持っています。この建設に参加した人間たちが引退したあとかもしれませんが、ニュートリノのみならず、たとえば素粒子物理学で一番重要になっている陽子崩壊というものをいつか捕まえることができたらいいなと思いますし、また何年先になるか分かりませんが、どこかで超新星が爆発し、そのニュートリノがまたここで観測され、その結果星の最期にできるブラックホールというものが文字通り、その瞬間をニュートリノで捉えられればいいなと考えています

※記事内の情報は番組が放送された2022年時点でのものです。

白黒写真。スーツ姿で笑顔の戸塚さん。
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