目次
ネコのような目をして歯をくいしばった人形たち。その名も「へんな人」は、どんどんその数を増やしています。午前0時に起床して創作活動。それでいて日中は福祉施設の役員として“普通の人”の顔も持つ、奥村ユズルさん、62歳です。
第一印象はとっても普通の人
「階段が滑りやすいから、気をつけてね」。
取材の日、静岡市葵区の自宅兼アトリエに筆者を案内してくれた奥村さん。初対面の印象はとても穏やかで、普通のおじさん。これまで会った超老芸術家の面々とは、少し雰囲気が違うのです。
玄関を入ると、最近力を入れている「へんな人」が一列に並んで出迎えてくれました。やはり普通の人ではないのか…
高齢になってから突如アートの才能を爆発させる人、高齢になっても情熱が枯れるどころか、より激しさを増して創作活動に没頭する人を「超老芸術家」と呼びます。
【超老芸術#4】「みんな気持ち悪いと言うけど」石と一緒に眠る男性テレしずWasabeeは超老芸術の名付け親でアーツカウンシルしずおかの櫛野展正さんが発掘した、プロではないが、もっと光があたるべき人たちをシリーズで紹介します。
ユズルを探せ?!
「へんな人」シリーズが強烈なインパクトを放っていますが、奥村さんの創作活動のスタートは外国の建物をテーマにした穏やかな絵画です。
学生時代から世界各国を旅するのが趣味で、旅先で見た建物を描きます。
奥村ユズルさん:
必ず杖をついた老人、車イスの人、天使、クロネコ、太陽を入れるのを決まりにしているんです。最近はボーダーシャツを着てリュックを背負った自分も書き込んでいます。コロナで旅行に行けなくなってしまったので、絵の中で旅をしているんです
絵を見ている人がキャラクターを探して楽しめる、「ウォーリーを探せ」ならぬ「ユズルを探せ」というわけです。
原色に魅せられて
奥村さんの制作スタイルは少し変わっています。右手には筆、左手には絵の具のチューブを持ちパレットを使いません。つまり色を混ぜることなく、チューブから直接とって塗ります。
「混ぜると色が暗くなってしまうから」というのがその理由。
ビビッドで明るく。実物に近づけることよりも、楽しかった思いを表現したいから、色は鮮やかなのです。
旅先の絵を描くときには、しばらく時間が経ってからとりかかります。その間に、旅の楽しかった思い出がより浄化され、楽しさの純度が増していきます。
悪霊も退散「へんな人」
奇妙な人形「へんな人」は、最初は平面の絵でした。
ある日、「埴輪(はにわ)みたいに立体にしたら面白かろう」と思い立ち、100円ショップで発砲スチロールのブロックを購入。それを胴体にして、石塑粘土で形を作り始めました。
色はやはり原色です。アクリル絵の具で色づけし、ニスを塗ってピカピカに。
モチーフは、ガネーシャだったり、アマビエだったり、アメコミのヒーロー「ワンダーウーマン」だったり。
歯を食いしばった“どや顔”をして、ネコの目をしているのは、全てを見透かしている証拠。悪霊を退散し、魔除けにもなるんだとか。
そんな強さの象徴のような人形たちですが、奥村さんいわく抱きしめると「カワイイ…」という気持ちが生まれてくるそうです。
実家のギャラリーに置いてある等身大のへんな人も合わせて、今では67体に増えました。
奥村さんの作品は、他にもネコと古代文字を描いた「シャンポリオン」、「旅芸人」、「神話と伝説」、「形色遊び」、の全6シリーズがあり、作品数は1000点を超えます。
制作のペースは、週に1~2作品が完成するスピード。
ハイペースで作品を作り続ける特徴は、他の超老芸術家に共通します。専門的に絵画を習ったわけではなく、独学を貫いていることも超老芸術の特徴です。
ただ、これまで出会った超老芸術家が燃えるように猛烈に作品作りに打ち込んでいたのに対して、奥村さんはどこか淡々としています。
奥村ユズルさん:
超老芸術家と呼ばれるのは抵抗があるんです。ぶっ飛んだ所がないので記事ネタとしては乏しいのでは
自分でそんな風に話す奥村さんの、「淡々とした情熱」をもう少し深く掘り下げてみることにしました。
「モラトリアムな若者」だった
奥村さんが絵を描き始めた頃を振り返ると、絵の中に、必ずお年寄りや車イスの人を描く理由がわかります。
奥村さんが大学生だった頃、まだ障がい者への偏見や差別は厳しく、多くの人は“施設に閉じ込められていた”と奥村さんは言います。
奥村さん:
そんな時代に一部の人が社会に飛び出して自立して生活し出したんです。彼らの生き方に感化されて、障がい者の生活を支えるボランティアに関わりました。障害者自立生活運動です。特に印象に残っているのは、市議会議員を6年間務めた渡辺正直さんです。進行性の筋ジストロフィーで人工呼吸器を付けていましたが、障がい者のための政策を作ろうと議員になり車イスで議場に通いました。視察に同行したりお世話をしましたが、包容力があり、なんでも認める広い心を持った人でした
岐阜県出身でサラリーマン家族の長男だった奥村さんは、特にこれといった目標もなく、静岡大学の法学科に入り、自分自身を「モラトリアムな若者だった」と振り返ります。
その頃、独学で始めた絵画ですが、理由は「暇だったから」。
そんな奥村さんの目に、厳しい社会に飛び出して、力強く生きる障がい者の姿はまぶしく写ったに違いありません。
その後、インドやヨーロッパを旅しながら福祉先進国のイギリスに約1年滞在して、知的障害の人たちが暮らすコミュニティで暮らし、多様性を肌で吸収しました。
旅先で見た風景の中に、障がい者や高齢者、多様性を描き混むスタイルはこの頃に確立。
帰国後は、障がい者の支援施設に就職し、施設の役員になるまで勤め上げますが、福祉業界は人を相手にするだけに人間関係のトラブルも多く、心が浮き沈みしないよう保つ必要があったと言います。
奥村さん:
「昼の仕事」「夜の絵描き」その2つで世界のバランスを保っています。仕事に100%ではなく自分の世界を持っていたかったのです。ここが全てではない、自分には別の世界があると思うと心に余裕が生まれます
こうして暇つぶしで始めた絵画は、奥村さんが穏やかでいるための支えになったに違いありません。
創作活動が生活の一部、なくてはならないものになっていきます。
その結果、驚きの生活スタイルが生まれました。
深夜0時の習慣
奥村さんの創作活動は、毎晩午前0時から3時間と決まっています。
奥村さんは妻と高校生の娘の3人暮らしです。家族が寝静まった頃に起き出し、創作活動をして、明け方にはまた眠る。
作品作りはリビングや、ダイニングテーブルでしています。
仕事から帰ってくると午後8時半には就寝。家族が眠る午後11時から午前0時頃に入れ替わるように起き出してリビングダイニングへ。3時間ほど集中して作品を作ります。
午後2~3時に再び就寝。朝は5時半に起きて、役員を務める障がい者福祉施設に出勤します。
睡眠を2回に分ける生活スタイルは娘が小さい頃に確立され、いままで止めたことはありません。
奥村さん:
熱量でやると冷めてしまいます。夜中の12時になったら筆を持つ。“習慣”ほど強いものはありません。目標は365日絵を描くこと、いまは350日描いています
淡々として見えますが、その継続力をみると、やはりただ者ではない熱量があると言わざるをえません。
そんな話を聞きながら、夜の静寂の中、創作活動に集中する奥村さんを想像していましたが、妻の千春さんによるとそうでもないらしく、サッカー中継を見ながら1人で大きな声を出したり、自作の鼻歌を歌ったりと、深夜でも賑やかだそう。
家族と奥村さんとの奇妙なリビング入れ替わり生活に、千春さんは「うちは明かりが消えることがない家なんですよ」と笑います。
ちょっと変わった、でも普通の家庭。リビングには「へんな人」がいる、普通の一家。
奥村さんは退職したら、全国をキャンピングカーで放浪しながら絵を描いてみたいと夢を話してくれました。
奥村さん:
大切なのは上手に描くことではなく、その人にしか描けないスタイルをつくること。いろんな風景や芸術に触れてインプットする。旅は想像の源泉です。学校に行かなくても、アンテナを張って取り入れていれば、表現したい物が出てきます
終始、親切に取材に対応してくれた奥村ユズルさん。心のバランスを保ってくれる超老芸術を「習慣」に昇華し、人生の調和を見事に手に入れた人物でした。
【もっと見る! 超老芸術の記事】