ニュース

「未来で何かあったとき選択を間違えずに済むのでは…」知られざる下田空襲 戦後世代が伝える戦争 静岡

太平洋戦争末期。アメリカ軍による本土空襲は静岡県内にも及び多数の被害をもたらした。ただ、伊豆半島の南部にある下田市が空襲に見舞われたことを知る人は多くない。

◆開国の街も空襲の標的に

荒井福美さん(61)

荒井福美さん:
(爆弾が)直接落ちたのは、船があるあの辺りだと思うんです。母が言うには。兵隊さんが並んでるのは見たみたいです

荒井福美さん(61)が説明しているのは78年前に下田市を襲った空襲だ。

荒井育代さん(92)

福美さんの母・育代さん(92)は14歳の時、母親と共に現在の南伊豆町から下田市の奉公先へ向かう途中、空襲に遭遇した。

荒井育代さん:
(下田での)最初の空襲の時だった。ずっと川沿いに兵隊さんが並んでたらしいんだね。それに爆弾を落として

1945年4月。轟音を響かせるアメリカ軍の爆撃機が下田港付近に爆弾を投下した。

育代さんが空襲に遭遇した武ガ浜の橋

荒井育代さん:
武ガ浜の橋を渡ろうとしたら(空襲が)始まって。驚いて渡り切った後、見ず知らずの家を「スミマセン。怖いです」と訪ねたら、その家の人が「入って中にいなさい」って言ってくれて。爆弾を落とす音だけがわかった

母親と無我夢中で逃げたという育代さん。

荒井福美さん:
この辺りは濛々と、向こう側は大変な状況だったんじゃないですかね。あまり怖くて記憶にないのと、このまま(橋を)走り切って、多分ここかその横にあった家に入れてもらったそうです。そこの人が「入りなさい」と言って。ここを歩いてた人が他にもいたらしくて、その人たちもみんな入って布団をかぶせてくれた、と

爆撃の音が鳴りやみ外に出ると、景色は一変していた。

荒井育代さん:
私たちが逃げたのは武ガ浜で、中原の通りがね、ただ兵隊さんが負傷した兵隊さんを抱きかかえたりね

学生時代の育代さん

開国の街として知られる下田だが空襲のことはあまり知られていない。

荒井育代さん:
母親は何か言おうとすると「言うじゃない!」って言ってね。結局、戦争のことに関わりたくないというのが、母親の(思い)

戦争に関わりたくない。怖くて思い出したくない。育代さんは同級生の多くが沼津市の軍需工場で働いていたにもかかわらず地元に残った後ろめたさもあり、下田空襲について娘にも語って来なかった。

◆きっかけは大学生のインタビュー

幼き日の育代さんの写真を見る荒井さん母娘

語り始めたきっかけは、学習塾を経営する福美さんの教え子の大学生が「下田空襲を調べたい」と協力を求めたことだった。

荒井福美さん:
私もこんなにはっきりちゃんと聞いたのは、大学生の子のインタビューで、2年前。あの時だね

荒井育代さん:
あの時、よく喋れたなってと思う

荒井福美さん:
喋ってくれてよかったね。だって聞かなかったらわからないもん。本当になぜ知らなかったんだろうって。驚きと共に、よくそこで母が生きててくれたなっていうのが。そうでなければ母は南伊豆に戻って生活を続けられなかったし、下田に嫁いで兄や私たちも生まれなかったし、今の私がないっていうことが、何かゾッとしました。正直言って

比較的知られている静岡市や浜松市の空襲だけでなく下田市が見舞われた複数回の空襲でも計100人以上が犠牲となった。

福美さんが中心となり立ち上げた語り部の活動

母が居合わせ、多くの犠牲者を出したこの空襲の記憶を後世に伝えなくてはいけない。福美さんは所属する子育て支援グループの仲間とともに語り部の活動を始め、地元の小中学校で母親など戦争経験者の話を子供たちに伝えている。

荒井福美さん:
子供たちにやっぱり怖いなって思うことと、そういう所(戦場)に行きたくないなっていう気持ち。もう祖父母くらいの年齢ですけど、そこには行かせたくないって気持ちをやっぱり忘れてほしくないってことで語り継いでくこと。知ることで、未来で何かがあった時に、その選択を間違えないで済むんじゃないかということが、私たちの中では今回始めた理由の1つです

◆1635年に創建された寺も被害

日米和親条約が結ばれた了仙寺

日米和親条約が結ばれた場所として知られる了仙寺。この寺もまた下田空襲の被害を受けた。

了仙寺・松井大英 住職
6月10日に下田大空襲がありましたよね。その時にこの境内だけでもかなりの人数が亡くなっています。今見えてるこの本堂もかなり被害を受けて、屋根もある程度吹き飛んでしまったり

横穴遺跡は防空壕としても活用された

本堂の裏手には防空壕らしき洞穴も。

了仙寺・松井大英 住職:
ここは海岸で生活していた跡の遺跡という「横穴遺跡」です。一種の防空壕としてもここは活用され、この中で皆さん避難をしていた。ただ結構近くに(爆弾が)落ちたらしくて、この中にいる方でも当時亡くなった方はいるようですね。爆風で亡くなった方もいるそうです

なぜ寺が標的となったのか。

了仙寺・松井大英 住職:
ここには当時、軍隊の人も駐屯してましたから。青森とか藤枝の部隊の人がここにはいたらしくて、ですから今もここには6月10日がちょうどその爆撃の日なので、その時に青森とか藤枝とか、そういった所からお参りにいらっしゃる遺族の方もいます

戦争の悲惨さを後世に伝えるべきと考える松井住職だが同時に語り継ぐ難しさを感じている。

了仙寺・松井大英 住職

了仙寺・松井大英 住職
母親からは本当に生々しい話は聞いてましたから、実際に体験した人の話というのは説得力がありましたね。それを私がどう受け継いで次の世代に伝えられるかはちょっとまだ今のところわからないんですけど。やはり現実から離れた話だけをしていても、なかなか先には進みませんが、ただし、その現実の悲惨さを知らないと話自体がすごく軽くなってしまいますから

終戦から78年。戦争を経験した人が減り、その悲惨さと平和の尊さを伝える難しさもあるものの、後世に伝えていくことは今を生きる私たちの使命と言えるだろう。

静岡のニュースを発信!静岡で何が起きているのか。これからどうなるのか?丁寧に詳しくお伝えします
  • BLOG
  • Instagram
  • LINE
  • YouTube