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静岡市清水区にある「吉川」という地区を訪れました。一般的には「よしかわ」と読みそうですが、読み方は「きっかわ」です。なぜこの読み方をするのか、地名の由来を調査すると鎌倉時代にまでさかのぼる、壮大な歴史が明らかになりました。
【画像】記事中に掲載していない画像も! この記事のギャラリーページへ吉川地区で吉川氏発祥の地を発見
静岡市清水区にある「吉川」を調査するのは、「きっかわ」と言えば歌手の吉川晃司さんが思い浮かんでしかたがない、にむらあつとリポーターです。
地図を見てみると、吉川の範囲は静岡鉄道・狐ヶ崎駅周辺から巴川までと、かなり広範囲であることがわかりました。まずは北側から調査を開始します。

吉川には住宅街が広がっていて、物流センターや工場のような建物もあります。
しばらく歩いていると、いきなり石碑が出現。「吉川氏墳墓」と書かれています。

土がこんもりと盛られた墳墓を囲むように石畳が整備された一角がありました。
そこには説明書きがあり、「戦国の世で活躍した吉川氏発祥の地であり、その由来は吉川八幡(きっかわはちまん)神社の鳥居に詳しく記されている」とあります。

説明を読み進めると、初代・吉川経義が1183年に源頼朝から吉川の領地を承認され、さらに第2代・吉川友兼が梶原一族を「狐が崎の合戦」で討った功績によって播磨の国、現在の兵庫県姫路市を得ました。
そして第4代・吉川経光は承久の乱の戦功によって安芸の国、現在の広島の地頭職に任命され、吉川氏は広島に移っていきました。

吉川晃司さんの出身地も広島。つながりが見えてきたことに期待が隠せないにむらリポーター。
どうやら吉川には吉川氏という一族がいて、吉川を発祥とし、西の方へ広がっていったようです。

吉川氏が「三本の矢」に 毛利元就との深い関係
さらに説明を読むと「三本の矢」というキーワードが出てきました。
戦国末期、毛利元就の次男・元春(もとはる)が吉川氏と養子縁組をし、小早川氏とともに毛利家の支柱となりました。

毛利元就が毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の息子に結束の大切さを説いた「三本の矢」の逸話はあまりにも有名です。
にむらあつとリポーター:
1本だとすぐ折れてしまうけれど、3本だと全然折れないから頑張れと、毛利元就が言ったあの有名な逸話ですよね
毛利元就の息子の1人が吉川家を受け継いでいる。「吉川」には意外な歴史があることがわかりました。
■名称 吉川氏墳墓
■住所 静岡市清水区吉川909地先
神社の鳥居に記された由来

さらなる情報を求めて、説明板に記されていた吉川八幡神社へ向かうと、驚きのルーツが待っていました。
吉川八幡宮は静岡鉄道・狐ヶ崎駅のすぐ北側にあります。
神社の鳥居には赤い字が書かれていましたが、漢文で一文字もなんと書いてあるかわかりません。

しかしありがたいことに、神社の鳥居に書いてある文字の意味を説明する説明板がありました。
それによると、駿河国の吉川村は鎌倉時代、経義の領地であったため、経義の姓を「吉川」としたと書かれていました。
吉川氏がここを支配していたから、吉川という地名になったのではなく、吉川という場所に経義が来たから吉川と名乗った、ということだったのです。

吉川の地に居を構えたのが藤原氏の流れをくむ入江氏。入江氏の経義が吉川氏と名乗り始めたのが吉川氏の始まりといわれているようです。つまり地名が先にあり、そこに入江氏がやってきて、地名から吉川氏を名乗り出したということになります。
吉川八幡神社には家系図など吉川氏の資料が多く掲示されています。

■名称 吉川八幡神社
■住所 静岡市清水区吉川37-2
自治会長に聞く“吉川晃司さんとの関係”
地域のことは地域の人に聞いてみよう!
吉川自治会の方に連絡し、自治会館で話を聞くことにしました。
吉川自治会・奥山靖司 会長:
地名がもともとあって、入江氏が来ました。5代目(吉川経高)までは吉川にいて、その後西の方へ行きました。最終的には北広島の大朝町に移住して、それぞれのところを分家に任せて、5つの拠点になりました。

ここでにむらリポーターが一番気になるのが、歌手の吉川晃司さんと吉川氏のゆかり。吉川晃司さんは広島出身であることから、つながりがあるのでは?
吉川自治会・奥山靖司 会長:
中国地方は吉川さんが多いので、何かしらのつながりがあるのではないかと思います。
奥山会長が言うには「きっかわ」と読めば、だいたい吉川氏とのつながりとのこと。奥山さんも各地の吉川氏と、交流があるそうです。

静岡市清水区の吉川という地名には、鎌倉時代から続く壮大な歴史が刻まれていました。地名の由来を調べることで、思いがけない発見と出会いがありました。まだまだリサーチの価値がありそうな、地域です。
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