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静岡市葵区に「牛妻(うしづま)」という地名があります。調べてみると、「牛」と「妻」という珍しい組み合わせは、地域に伝わるロマンチックな物語に由来していました。
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今回調査するのは、静岡市葵区の「牛妻(うしづま)」。JR静岡駅から安倍川に沿って、北に車で約30分。
大部分は山林ですが、安部街道の両脇には民家や畑があるのどかな地域です。

昔は牛がたくさんいたり、酪農が盛んだったりしたのでしょうか。
歴史に詳しそうな地域の人を探しますが、なかなか見つかりません。安倍街道を下りつつ、歴史の長そうなお店を探すことにします。

見つけたのは、サインポールが目印の理容室「理容かわづ」です。
川津通久さんは、牛妻に80年住んでいるとのことで、期待が高まります。
川津通久さん:
私も80年住んでいますから、多少のことはわかります

紙芝居を作っちゃった人
牛妻の由来が分かるものはあるか聞いてみると、すてきな紙芝居を持ってきてくれました。
タイトルは「牛妻伝説 小萩と黒牛」。いったいこれは?

実は川津さん、地元では牛妻の歴史に詳しい理容店のおじさんとして有名。
毎年、夏になると安倍川の河川敷で「水辺の楽校(がっこう)」というイベントを開催しています。
小学校の夏休みに合わせ開催されるイベントでは、子供たちに水遊びの楽しさや地元の歴史を伝えています。

その活動の一つが、牛妻の由来となった「牛妻伝説」を自作の紙芝居で読み聞かせることでした。
由来がわかる「牛妻伝説」
果たしてその内容とは。紙芝居で見て行きましょう。
恋をした修行僧

「昔々、今から450年くらい前のことですが、竜爪山の南側の山奥に、道白平というところがありました。人がめったに来られない深い山奥で、大勢のお坊様が日夜、仏様の教えを学ぶ修業を積んでいました。

仏の道を説く道白(どうはく)和尚は、祖益(そえき)という若者に期待し、指導をしていました。
ある日、祖益は修業の托鉢(たくはつ)を行うため今川家が治める城下町へ向かうと、そこである出会いが。
府中の町の今川家の館には、小萩という奥女中が奉公していました。

小萩は田野村、今の牛妻の田野の生まれで、とても美しく優しい心をもった娘でした。
祖益は小萩に会うたびに「なんて美しく優しい娘さんだろう」と、小萩に強い恋心を抱くようになりました。
恋の病で命を落とした修行僧

道白和尚は祖益の様子から気がついて「仏の道を修行している者が、女性に恋心を抱いては畜生道(ちくしょうどう)におちるぞ」と、強く諭しました。
しかし、小萩のことをどうしても忘れることができない祖益は、とうとう恋の病に取りつかれ、看病のかいなく死んでしまいました。

恋の病で死んだ祖益は、和尚様の言う通り地獄の畜生道に落ちて、一頭の黒い雄牛に生まれ変わりました。
牛になった僧を哀れむ娘
黒い牛になった祖益。昼間は今まで通り道白和尚に仕えていましたが、夜になると田野村へ向かいました。

そこには、祖益とのうわさが原因で今川家の館を追い出された小萩がいました。
実家に戻っていた小萩はこの黒い牛を哀れんで、毎日親切に黒い牛にえさを与えました。
叶わぬ恋の物語が地名に

小萩の生まれた田野村の人々は、牛になっても小萩のことを思う祖益を哀れみ、この日以降、田野村を牛妻村と呼ぶようになり、橋には「小萩橋」という名前を付けました。」
地名の由来は修行僧と村娘の叶わぬ恋にまつわる物語だったのです。

この伝説に基づいて田野村は牛妻村に。牛は祖益から、妻は小萩からきていました。
小萩の名前が付いた橋
牛妻伝説の登場人物、小萩の名前がついた橋があると川津さんから聞いて、見に行くことになりました。
それは市立賤機中小学校の南側、安部街道にかかっていました。

完成は比較的新しく、約40年前の1985年です。
川津通久さん:
伝説に基づいて、みんなで小萩橋を造ろうということになりました。小萩が住んでいた田野村は、橋の上流にありました
橋のあたりはまさに、牛になった祖益が歩いていた場所かもしれません。
小学校の通学路として利用されるため、子供たちから名前を募集して、得票数が多かった「小萩橋」に決まったそうです。牛妻伝説が地域に根付いている証拠ですね。

地名の由来を調べてみると、地域に根付く伝説にたどりつきました。叶わぬ恋の物語は、今も牛妻の地で語り継がれています。
■スポット名 小萩橋
■住所 静岡市葵区牛妻
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