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メダリストの元陸上選手・為末大さんが、過去にオリンピックに向け夢中になって視野が狭くなっていたときにかけられた「たかが陸上じゃないか」の言葉。その言葉をきっかけに、気付いたことがありました。
4月30日にテレビ静岡で放送された「テレビ寺子屋」では、オリンピック400mハードルの銅メダリスト・為末大さんが、高校の先生からかけられた「たかが陸上ではないか」という意外な言葉の真意について話しました。
陸上競技人生で大切にした「遊び」
元陸上選手・為末大さん:
スポーツをやっていると、「遊びじゃないないんだ、まじめにやれ」と、よく言われますが、陸上競技を25年間やる中で、「遊び」というのがとても大事だと思っています。オリンピックに行くという道でも大事なのですが例えそうでなくても、すべての子供にとって、そして大人にとってもすごく大事なことです。
私たちの人生や何かに取り組む中で、「遊び」がいかに大事なのかについてお話しします。
遊びの“余白”が自由を生む
【遊びは不規則なものである】
「遊び」という言葉は、いろんな場所に使われます。余白、余裕、不規則さ。
人間は完璧ではなくて、事前にすべてを知らない。やってみるしかないのですが、そうすると予想がつかないことも出てくる。それを楽しみ、「遊び」を取り入れて、どうなっていくかわからないことに少し身を委ねるということも、すごく大切なことです。
遊びに不規則さが含まれていることが、ルールでがんじがらめにならないように余白を作ってくれて、少し自由な部分もでき、それが子供たちの可能性を開いたり、大人も窮屈さから逃れて新しい展開を生むことにつながったりするかもしれません。
高校の先生が「たかが陸上じゃないか」
【遊びは無意味である】
私たちが生きていく中で苦しくなる時というのは、うまくいかなくなることそのものよりも、「もうおしまいだ」というところから視点が動かなくなっているのです。
そんな時に遊びの無意味さが何を提供してくれるのかと言うと、「たかが遊びじゃないか」なのです。
私がハードルを一生懸命やっている時に地元に帰ったのですが、オリンピックに向けてもう視野が5度くらいになっていたのでしょう。高校の先生が背中を叩いて言った一言が「お前、たかが陸上じゃないか」だったのです。
その瞬間は怒りました。でも、たかが陸上なんですよね。人生というのは大きくて、もし陸上がなくなっても、別のことがあるわけです。
一生懸命になりがちな日本人だからこそ、時々、遊びは無意味なんだ、たかがこんなものなんだ、という軽さも持った方がいいと思います。
主体的な「遊び」で人生が豊かに
【遊びは主体的なものである】
遊ぶことで、自分が主体的に何かに関わっていくというのが、感覚的に分かります。
主体性は、その人が何かを仕掛けようとしているところに現れます。どんなことも完全には自由にできないし、組織の中では役割もあります。でもその中で、自分なりにちょっと仕掛けてみる、これがあるかどうかが、主体性があるかどうかということなのです。
真面目に、一生懸命遊ぶ中で、人は少なからず夢中になる瞬間があります。生きているという実感と、ああ楽しかったという余韻。
「遊び」は自分の人生を豊かにしてくれながら、社会をより良く豊かに変えていってくれるのではないかと思っています。
為末大:1978年生まれ。世界陸上の男子400mハードルで銅メダルを2度獲得。五輪に3度出場。動画プラットフォーム「為末大学」の学長を務めるほか、スポーツと社会貢献のために幅広く活躍。
※この記事は4月30日にテレビ静岡で放送された「テレビ寺子屋」をもとにしています。