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ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した物理学者・戸塚洋二さん。ノーベル賞受賞は確実と言われながら、がんのため66歳という若さでこの世を去りました。実験装置で大事故が発生し絶望的な状況になっても諦めず、1年で実験を再スタートさせたリーダーシップとその功績を、母校の新聞部の高校生たちが追います。
※富士高校創立100周年記念としてテレビ静岡が2022年に放送した番組を元にしています。
戸塚さんを知らない後輩たち
旅の始まりは2022年の春。富士山のふもと、静岡県立富士高校には新入生たちの姿がありました。
校長:
新入生の皆さん、本校は秋には創立100周年記念式典が挙行されます
記念撮影でぎわう中、正面玄関横の顕彰碑に人だかりはありません。宇宙物理学の世界的権威、戸塚洋二さんの碑。富士高校の卒業生です。ノーベル賞の受賞を果たすことなく、この世を去った戸塚洋二さん。後輩たちが取材の旅を始めました。
2022年に創立100周年を迎える富士高校。新聞部では記念号の編集会議が行われていました。
新聞部・猪狩部長:
戸塚さんに迫ったところで、おもしろくない。100周年の式典で記念号を配るけれど、大人受けはいいかもしれないけど正直生徒は読まない
新聞部・杉山さん:
自由研究の一番上の賞が戸塚洋二賞。それでずっと知っていて、やはりここで生徒に興味を持ってもらえたらいいなとは思っています
新聞部・大竹副部長:
生きている戸塚先生に面識がある人に直接問い合わせをして…
新聞部・猪狩部長:
まずどういう人か調べて…みんな知らないから
部員たちからあがってきたのは「ノーベル賞を実際とっていたら」「いまいち何をしたのか、よくわからない」といった声。
新聞部・大竹副部長:
前に富士高新聞でやっていたのを見たんですけど、そこまで深く掘り下げている感じじゃなかったので、自分たちでもう一回やり直してさらに深くできる可能性はあると思いました
手作りの勉強机
戸塚洋二さんは1942年、静岡・富士市の生まれ。地元の小中学校を経て富士高校へと進学します。東京大学に進み29歳で博士号を取得。のちにノーベル賞を受賞する小柴昌俊さんのチームで素粒子研究へと没頭していきます。
最大の功績は、宇宙から降り注ぐ素粒子ニュートリノに質量があることを発見したことです。新聞部の後輩記者たちは、まず地元富士市に今も残る戸塚さんの生家を訪ねました。
戸塚さんの義理の甥にあたる戸塚浩史さんが、貴重なものを見せてくれました。大切に保存されてきた勉強机です。
甥・浩史さん:
ここにY.T.と書いてあるので、Totsuka Yojiだと思うんですけどね
この机、戸塚さんが子供のころ手作りしたものだそうです。机に向かって、戸塚少年はどんな夢を抱いていたのでしょうか。
手帳に残された亡くなった後の予定
観光客で賑わう道の駅、富士川楽座。ここにも戸塚さんを知る手掛かりがあります。偉業を紹介する展示館の収蔵庫の奥に、貴重な資料が眠っていました。
富士川まちづくり株式会社・望月伸哉さん:
戸塚先生が実際に研究の時に使っていたノート。直筆のノートになります
几帳面な性格だった戸塚さんは、後輩研究者にも研究ノートや日記帳を大切に保管するよう、常に言い聞かせていたと言います。
富士川まちづくり株式会社・望月さん:
年度ごとに追ってますが、2001年から2年、3年、4年。こちらにあるのが2008年までの手帳です
戸塚さんの手帳には国内外への出張の予定などがびっしりと詰まっていました。
新聞部の生徒:
亡くなったあとにも書いてあって、もしかしたら予定が入っていたのかもしれません。亡くなったのが7月10日なんですけど、7月いっぱいまで予定が入っている
戸塚さんをよく知る男性が、小高い丘に案内してくれた。
岳南忠霊廟奉賛会・齊藤斗志二代表:
ノーベル賞の椅子のブロンズ像を作りまして。スーパーヒーローなんだよね。戸塚さんも故郷から出て世界で頑張ったからね。100周年であなたたちが高校生が企画してくれたっていうのが、とっても嬉しくてね
富友会・舩村雅彦会長:
ノーベル賞に近い人が富士から出るという話は何となくうわさに聞いていたんだけど、19年前の富士市の名誉市民第一号になられて。戸塚さんの名前は100年後も200年後も残っていくと思います
椅子は、戸塚さんが研究人生を捧げた岐阜県飛騨市の方向に向けられています。
盟友が語る戸塚さんは
その研究施設で共に働き、戸塚さんの盟友ともいうべき人が取材に応じてくれました。梶田隆章教授。ニュートリノの観測で戸塚さんと一緒に研究に励み、戸塚さん亡き後の2015年にノーベル物理学賞を受賞しました。東京大学宇宙線研究所には亡くなってから14年たった今でも、戸塚さんの部屋が残されています。
東京大学・梶田隆章 卓越教授:
宇宙線研究所を引退された後ですけど、ここに来て仕事をされていた
戸塚さんが巨大実験装置の建設を指揮した際の資料も保管されていました。
梶田教授にとって、戸塚さんはどのような人だったのでしょうか。
梶田教授:
戸塚先生の存在は本当に大きい。私たちがニュートリノという素粒子に、非常に小さいけれども質量があることを発見しましたが、この装置はスーパーカミオカンデという実験装置で、実験全体を長年にわたって指揮をとってこられたのが戸塚先生ですので本当に中心人物です
心血を注いだスーパーカミオカンデ
スーパーカミオカンデは100億円以上をかけた巨大実験装置で、戸塚さんが建設を指揮をしました。宇宙の歴史や物質の根源を紐解くための観測で多くの研究成果をあげ、梶田隆章教授のノーベル賞の受賞につながりました。
ここで観測を続けているのは、宇宙の秘密の鍵を握る謎の素粒子ニュートリノです。宇宙から高速で飛来した宇宙線が地球の大気と衝突するなどによって、ニュートリノが発生します。
スーパーカミオカンデに蓄えられた約5万トンの水の中で、ごくたまに光を出すため、その光をセンサーでとらえるのが装置の役割です。
この観測成果でノーベル賞を受賞した梶田教授は、スウェーデンで行われた受賞式に戸塚さんの遺影を持参していました。
梶田教授:
ノーベル委員会でないので分かりませんけど、当然戸塚先生はノーベル賞をとるだろうと世界の研究者は思っていた。ノーベル賞を受賞されるべき、そういう人だったと思います
スーパーカミオカンデの大事故
2022年8月、新聞部の記者たちも千葉県柏市にある東京大学宇宙線研究所を訪ねました。戸塚さんは、ここでも所長を勤めていました。
Q.研究仲間にとって戸塚さんはどのような存在だったか
東京大学宇宙線研究所・中畑雅行所長:
一言で言えば厳しい先生。すごく強いリーダーシップを持った先生でした。良いこと悪いこと一緒に経験しました。何百人という研究者が参加しているスーパーカミオカンデの実験です
東京大学宇宙線研究所・中畑雅行所長:
その実験装置で大変な事故が起きてしまって、研究者が路頭に迷う。これからどうやって研究していけばいいんだろうという時だったんですね。その事故が起きた次の日に戸塚先生が来られて、英文で何百人という研究者に向けて発したメッセージが「とにかくスーパーカミオカンデを再建させよう」と。「そこに疑問の余地はない」と
2001年11月、スーパーカミオカンデでは大事故が発生しました。しかし当時、所長だった戸塚さんは絶望的な状況にもあきらめることなく、1年以内の実験再開を目標に掲げ、世界に英文で発表しました。
再び新聞部の編集会議が開かれました。
新聞部の生徒:
入れたい企画は?
生徒:
戸塚さん!
100周年記念号の紙面割が進んでいく。戸塚さんの人物史は、大きな特集とすることに決まりました。
スーパーカミオカンデの事故、そして1年での再開を世界に宣言した戸塚さん。新聞部は、岐阜県飛騨市へと向かいました。
「鉱山のまち」から「宇宙のまち」へ
富山県との県境にほど近い山あいの町、岐阜・飛騨市神岡町。かつては亜鉛の鉱山の町として栄えていたが、年々採掘量は減りさびれかけていました。町に再び灯をともしたのがニュートリノ研究です。
鉱山跡地に作られた観測施設からノーベル賞につながる発見が生まれたことで、今では「宇宙のまち」として多くの観光客が訪れています。
ひだ宇宙科学館の巨大スクリーンに投影されたのは、スーパーカミオカンデの壮大な内部の映像。宇宙から飛来するニュートリノをとらえる仕組みが分かります。
ノーベル賞を受賞した小柴さんや、戸塚さんの直筆サインも展示されています。
研究所の車に乗せてもらい富士高校新聞部と番組取材班は、実験装置のある鉱山跡地へ。
神岡宇宙素粒子研究施設・塩澤眞人教授:
いま1.8kmほぼ直線のトンネルを進んでいるんですが、進んだ先がスーパーカミオカンデの40mの水槽の上の部分にあたる
かつての鉱山を利用して、山頂から1000mもの地下に巨大な空洞を作り、スーパーカミオカンデを建設しました。
トンネル内で車を降り、歩いて実験施設へ。見たこともない光景に、生徒たちも圧倒されます。目の前に現れたのは、まるで宇宙基地のような巨大な空間。高さ41m、実験装置スーパーカミオカンデの真上にいます。
案内してくれたのは塩澤眞人教授。まだ学生だった頃に戸塚さんの共同研究チームに入って働き、現在はスーパーカミオカンデのある、この実験所の施設長を務めています。
塩澤眞人教授:
ここの実験には1995年の建設の頃から携わっていますが、95年頃は私自身は毎日この現場にやってきて装置の建設作業。戸塚さんは怒る時には怒る。やれと言われたら、やれ。この実験装置は「95年4月1日午前0時0分に実験を開始せよ」と。「せよ」とはっきり言うんです。やらなきゃいけない時はやれ、それが戸塚さんでした
戸塚さんが心血を注ぎ、約5年の歳月をかけて完成したスーパーカミオカンデ。
戸塚さん(当時は施設長 完成記念式典で):
装置のもう一つの心臓部分は、この空間を埋めつくす水でございます
1996年に完成したこの実験装置は、ニュートリノ研究において歴史的な発見を次々と生み出していきます。そのチームの中心にいたのが戸塚さんでした。
大切に保管されている“事故の残骸”
塩澤教授:
これは事故を忘れちゃいけないという意味で、僕にとっては意味がある
最近建て替えられた真新しい施設長室の片隅に、ガラス管が破裂し金属部分がむき出しになった光電子増倍管が保管されていました。戸塚さんの時代から受け継がれる、破損事故の残骸です。
2001年11月、約1万1000本ある光センサーのうち、たった1本のガラス管が破裂しました。しかしその衝撃波が連鎖反応を起こし、装置全体の半数の光センサーを失うという大事故が起こります。
梶田教授:
現場全体が沈んでいる感じでした。そういう中でも戸塚先生はいち早くスーパーカミオカンデを再建するんだと、みんなに意見を聞いた上で決めて、世界に向けて発信してくれまして、それがあったので方向が明確になってチームとしてスーパーカミオカンデの再建に向けて頑張っていけたと思います。そういうのをリーダーシップというんじゃないかと思います。
Q.もしそのポジションを担当していたら
私にそういうことができるかどうか怪しいですね
東京大学宇宙線研究所・中畑所長:
事故から1年しないうちにスタートできた。事故からの1年は戸塚先生の言葉で研究者一丸となって進むことができた、というのが一番私の記憶に残っている戸塚先生の思い出
未曽有の大事故。この瞬間、研究者何百人もの生活、そして夢がトップに立つ戸塚さんの肩にかかりました。
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