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岸田総理は9月13日に内閣改造を行い、外相には上川陽子 衆議院議員(静岡1区選出)を起用した。過去には法相などを歴任してきた上川議員。これまでの取材などを基に、その素顔や経歴、考えを紹介する。
◆政治家を志した原点はアメリカ留学
新外相に任命された上川陽子 議員は1953年・静岡市生まれの70歳。静岡雙葉学園中・高から東京大学を経て、三菱総合研究所に就職した。しかし、当時は男女平等という概念が薄い時代で「事務職で入社した」という。
自身のキャリアを大きく変えたのが1985年に制定された男女雇用機会均等法。これにより社会や会社の制度が変わり「試験を受けて研究職に就くことができた」そうだ。
1986年から1988年にかけては政治行政学を学ぶため、アメリカのハーバード大学大学院に留学。「自分自身シンクタンクに勤め、時代の大きな流れの中で情報化時代を先取りするアメリカを勉強した上で、日本の政策作りに役立てたい」と考えたからだ。
ただ、時は貿易摩擦の真っただ中。現地に行って感じたのは「日本が何を考えているのかという発信の面、理解を得るための努力が弱い」という思いで、同時に「政治の役割を痛切に感じた」と振り返る。アメリカでは上院議員の政策立案スタッフを務め、大統領選の選挙運動にも参加。そして、日本に帰国すると「外から見た日本を思い、政治のリーダーシップが必要だと痛感し、日本の将来を考えた時に政治の中に身を置いてやっていきたい」と政治家を志した。
◆若手時代は紆余曲折あった政治家人生
衆議院議員選挙に初めて挑戦したのは1996年。静岡1区に無所属で立候補するも、結果は得票数5位と惨敗。
その後 自民党に入党し、迎えた2000年の衆院選。6人が立候補する中、民主党の元職をわずか572票の僅差で上回り初当選を果たしたが、自民党の公認候補がいるにも関わらず立候補を強行したため、選挙前には自民党を除名されている。
しかし、その年の11月に内閣官房長官や自民党幹事長などを歴任した故・加藤紘一 氏などが主導して森内閣の倒閣を目指した、いわゆる“加藤の乱”に際し、加藤氏に近い院内会派・21世紀クラブに所属しながらも内閣不信任決議案の採決で反対票を投じたことを自民党静岡支部が評価し、翌2001年に復党。2003年の衆院選では小選挙区こそ敗れはしたものの比例区で復活当選すると、2004年には自民党の女性局長に就いた。そして、2005年のいわゆる“郵政選挙”で3選を果たすと総務大臣政務官に任命され、2007年に内閣府特命担当相として初入閣した。
だが、自民党が下野した2009年の衆院選では落選。比例復活も叶わず、3年余りの浪人を余儀なくされるなど、実は紆余曲折の政治家人生であることはあまり知られていない。
◆法相を3回務め在職日数は通算1161日
2012年に自民党が政権を奪還するとともに国政に復帰すると、2014年、2017年、2021年と年を追うごとに得票率・得票数とも伸ばし、ここまで当選7回。この間、法相を3回務め、在職日数は通算で1161日を数える。法相時代は「いつも子供のことを考えて活動してきた」といい「赤ちゃんは言葉を発せない。それでも一人の命。言葉は発せないが、その言葉を聞き取れるかということが重要。言葉なき赤ちゃんの声を聞くことができるかという観点で政策を考えてきた」と胸を張る。
自身も2児の母として身を粉にして働く中で「たくさんの力を借りて子育てをしてきた」。だからこそ「恵まれた状況の人だけがそうしたものを享受できるのではなく、誰もが得られるような社会にしたい」という思いが強く、「法務省の仕事は国民一人一人が生涯、生き生きと活躍する基盤として、安全・安心な社会を『法の支配』を貫徹することによって実現していくという重要な役割を担っており、法務行政における個々の課題への対応についても『法の支配』と『誰一人取り残さない』社会の実現という揺るぎない目標を常に念頭に置いてきた」と話す。
また、法相時代に力を入れてきたことの1つが国際社会において法の支配など普遍的な価値の確立を目指す“司法外交”の推進だ。就任前から日本の法制度を東南アジアに伝えたり、日本が持つノウハウを生かして諸外国の法整備の支援をしたりということに関わる中で「制度論と人を育てるという意味において、日本は潜在力・競争力があることに気づいた。これを地道にやっていくことが存在感につながる」とビジョンを描く。
過酷な大臣職。心身ともに難しい役割を担う中で健康管理には人一倍気を使うとともに、体力増強のため「毎日スクワットをし、100回以上できるようになった」そうだ。
◆オウム真理教の死刑執行 今も警護が
「慎重にも慎重な検討を重ねた上で、執行を命令した次第であります」。
上川議員の名が世に広く知られることとなったのは2018年7月。2度目の法相在任中に命令を下した麻原彰晃こと松本智津夫 元死刑囚らオウム真理教の元幹部 計13人に対する死刑執行だ。会見では「過去に例を見ない、そして今後、二度と起きてはならない極めて凶悪・重大なものであり、我が国のみならず諸外国の人々をも極度の恐怖に陥れ、社会を震撼させた」「被害者や家族が受けた恐怖、苦しみ、悲しみは想像を絶するものがある」と刑の執行に至った理由を説明し、その毅然とした姿が印象に残っている人も多いだろう。
今もオウム真理教や松本元死刑囚を崇拝する人たちによる復讐の危険性が拭えないため、いつ、どこに行くにしても警護警察官が護衛に付く生活を送る。
◆現憲法下では県内選出2人目の外相
まもなく議員生活はちょうど20年。政治活動は「毎日が気づきの連続」だという。上川議員は「気づくということは問題意識があるかどうか。問題意識がないと気づきができない。日常の中で、たくさんの声を聞いていないと抽象的な制度論になる」とした上で「施策は届いてなんぼ。届ける努力を政治がしなければならない」と自らに言い聞かせる。
民間の時代も含め忙しい日々だったが、我が子に対しては「自分自身、ベストを尽くす。そういう生き方をしたい、働き方をしたいと思いやってきた。生涯、学びながら進んでいく。たくさんの失敗もあったが一番のモットーは将来振り返った時に、仕事をしながらでも『心を尽くした人間なんだ』ということを意識してきたつもり」と笑顔を見せた。
「不易流行」という言葉を大事にし、「変えるものについては変える勇気を。変えてはいけないものについては確信の中で変えないという信念を。変えてはいけないものと変えるべきものとの狭間を見極める知恵が大切」と説き「絶えず議論をしながら今の時代、今の時期にはどうあるべきか見極める必要がある」と話す。
現在の憲法が施行されて以降、県内選出の国会議員が外相を務めるのは1956年の故・石橋湛山 元総理以来2人目だ。ただ石橋元総理の場合は首班指名を受けたものの閣僚人事が難航したことに伴い、自らがすべての大臣職を臨時代理として兼務したという特殊事情があり、外相としての在任期間はわずか半日。つまり静岡県の政界にとっては、上川議員が事実上 戦後初の外相となる。それだけに県内の政治関係者や有権者の期待も高まっている。