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今川義元はまるで親だった 徳川家康の元服式が行われたと伝わる神社で2人の関係を探る【静岡浅間神社】

静岡市中心街の北にある静岡浅間神社は、家康が元服式を行ったと伝わる神社です。それは今川義元に人質としてとられていた時代。しかし義元と家康の、まるで親子のような関係性が静岡浅間神社に伝わる記録や言い伝えからは見えてきます。

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56の神々をまつる神社

JR静岡駅から歩いて30分。駿府城公園の北西に静岡浅間神社はあります。

静岡浅間神社は、駿河国内の多数の神様を集めておまつりする神社です。

その一つである浅間神社は、本社である富士山本宮浅間大社の主祭神コノハナサクヤヒメの御分霊を迎え、約1100年前に創建されました。

(画像提供:静岡浅間神社)
県内唯一の2階建て大拝殿(画像提供:静岡浅間神社)

境内には併せて40の神社が存在し、56の神々がまつられ、その中には徳川家康も含まれています。

竹千代として幼少期から19歳まで駿府で過ごし、元服式も静岡浅間神社で行われたと伝わっている家康。

家康を語るのに欠かせないのが、元服式で烏帽子親(えぼしおや=元服の際に烏帽子をかぶせてもらう仮親)を務めた今川義元です。

静岡浅間神社に伝わる2人の話を、禰宜(ねぎ)・宇佐美洋二さんに聞きました。

静岡浅間神社 禰宜・宇佐美洋二さん

静岡浅間神社 禰宜・宇佐美洋二さん:
静岡浅間神社は、駿河今川氏初代当主の今川範国(のりくに)の時代から代々厚い崇敬を受け、氏真(うじざね)の代までの約230年間、深い関わりがあります。範国の時代には、能の始祖の観阿弥が生涯最後の舞を奉納したことで有名です。神社には今川家の文書を始めとして、ゆかりの物や言い伝えが残っています

氏親の3男であった義元は、幼少の頃より仏門に入っていました。

観阿弥が最後に舞った拝殿前の舞殿

静岡浅間神社・宇佐美さん:
元々京とつながりが深い守護大名の家系で公家出身の母を持ち、文化教養が高かった義元は、駿府を今まで以上の文化都市に発展させました

このような人物であった義元は、人質としてやってきた幼い竹千代をどのようにしようと思っていたのでしょうか。義元が作ったどのような環境が、竹千代を天下統一を果たす家康に変えたのでしょうか。

竹千代と今川義元像(JR静岡駅前)

“特別扱い”だった竹千代の元服

8歳の時から駿府に滞在していた家康は、14歳の時に元服します。その元服式が行われたのが静岡浅間神社です。

義元が務めた烏帽子親とは、元服式で成人の証である烏帽子をかぶせるだけでなく、成人としての名を与える役です。

この時、家康は義元の「元」の一文字をもらい、元信と名乗りました。その時に着用した「着初の腹巻」が家康自らの手により奉納され、今でも静岡浅間神社に残っています。

(画像提供:静岡浅間神社)
家康により奉納された着初の腹巻 義元より贈られたもの(画像提供:静岡浅間神社)

義元が烏帽子親になり名前と高価な武具を与えるくらい特別扱いされ大事にされていた家康。なぜ、これほど尽くされたのでしょうか。

静岡浅間神社 禰宜・宇佐美さん:
竹千代はとても聡明であり、おおらかで優しく慈悲深く、家臣のみならずさまざまな人がついて行くようになったと伝わっています。大人が驚くような聡明さが分かる逸話も多く残っているので、義元は自分の意志を受け継げる者として期待したのかもしれません。それがいつしか親心となり、ありとあらゆる勉学に勤しめるようにしたのでしょう

今川義元像(JR静岡駅前)

義元が討たれてから 目指すは天下統一

戦に強かったと言われる義元ですが、戦の時に掲げていた旗印が「赤鳥(あかとり)」と呼ばれる紋です。

範国の時に、浅間神社の神様から与えられた紋で、代々戦の度に縁起を担いで旗印として使っていました。

今では、お守りとして私たちも赤鳥の力にあやかることができます。

静岡浅間神社で受けられるお守り

静岡浅間神社・宇佐美さん:
「海道一の弓取り」と呼ばれ、どの武将にも一目置かれていた義元の元にいた家康は、さまざまな学問と共に、人の生様や人生の教訓のようなものを学んでいったでしょう。ただ勝利するための戦法だけでなく、なぜ戦をするのか、戦の勝利の先に何を見込んでいるのか、そういったことを学んでいたのではないのでしょうか

桶狭間の戦いで主君であった義元を亡くした家康は、一人の武将として歩み出します。何を目標に歩み出したのか。

それは天下統一、ここから修羅の道が始まるのです。

徳川家康像(JR静岡駅前)

家康を天下統一に導いた摩利支天

浅間神社にある八千戈神社は、かつては戦の神様「摩利支天」をまつる社で、摩利支天と呼ばれていました。

この摩利支天は、家康を天下統一へと導いたといわれています。

天下統一を果たす最後の戦であった関ヶ原の戦いで使った軍配が奉納されたので、この神社の神紋は「軍配」をかたどっています。

境内中央に位置する八千戈神社

静岡浅間神社・宇佐美さん:
今川氏が代々祈りを捧げてきた神社へ、家康もその思いを受け継いで祈願しています。関ヶ原の戦いの勝利の先に家康が夢見たことは、天下統一し太平の世を築くことでした。その夢は、戦でつぶし合う世でなく戦をもって治めようとしていた、かつての義元のものでした

戦乱の世の中が始まり、なんとか争いを治めたいという義元の姿を家康は見ていたのではないかと宇佐美さんは話します。

ひょうたんの絵馬

戦の際に使用した「勝瓢(かちふくべ)」が家康により奉納されて、今に伝わっています。 その勝瓢を模した小さなひょうたんに願いを込めて神前に祈りを捧げることができます。

境内各所にあふれる家康の思い

家康は、武田軍との戦いの間に静岡浅間神社に火を放ち、再建することを神前に約束して燃やしてしまいます。天下統一後、約束通り浅間神社を再建し、3代将軍家光がさらに豪華に再建しました。その後火事により燃えてしまい、現在の社殿群は今から200年前より60年間かけて再建されたものです。

境内には家康の思いが形となって残っています。

多くの彫刻が施された楼門

それがわかるのが、舞殿の彫刻。象徴的なのが獏(バク)です。

金属を食べる動物とされていた獏。戦で武器として金属が使われると食べ物がなくなってしまい、獏は飢え死にすると言われています。

獏がここに存在するということは、世の中が平和で戦のない日々が営まれていることを示しており、家康の平和への祈りを表しています。

舞殿の彫刻の獏(バク)

家康が駿府を隠居地に選んだ理由を記した「廓山和尚供奉記」には、家康が駿府の地をなぜ気に入っているのか書かれています。

駿府に来る前の竹千代は、母親は離縁、父親は暗殺、敵方の織田信秀に命を差し出され、波乱の日々を過ごしていました。

一方で義元に与えられたのは、おいしいご飯に平和な日々でした。幼い竹千代が何より望んでいたものだったのではないのでしょうか。

徳川家康像(JR静岡駅前)

大御所となって終のすみかとして選んだのは、かつて義元と過ごした駿府の地でした。家康が思うふるさとは、義元が重なって見える駿府なのかもしれません。

■スポット名 駿河国総社 静岡浅間神社
■場所 静岡市葵区宮ケ崎町102-1
■時間 9:00~17:00(授与所)
■問合せ 054-245-1820

【もっと詳しく見る】静岡浅間神社のホームページ

取材/大倉麻衣子

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静岡生まれ静岡育ち。 神社仏閣伝承研究家。伝承にまつわる記事や地元で見つけたおいしいお店の紹介を書いています。 好物は和歌と本とコーヒー。著書にノンフィクション/エッセイ「CHASE」、「前を向いて」。 好きな歌は 君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をもしる人ぞしる  
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