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静岡市を流れる安倍川の土手にひっそりと立つ小さな石碑。「宮崎総五」という名前がかろうじて読み取れます。宮崎総五とは誰なのか、この謎めいた石碑の正体を追うと、明治時代の偉人の偉業が見えてきました。
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正体不明の石碑との出会い
静岡市を南北に流れる一級河川「安倍川」。
そこにかかる橋の一つ「安倍川橋」のたもとに石碑があります。
大正時代に作られたとみられる小さな石碑。
腰の高さほどのコンパクトな石碑です。たくさん漢字が書いてあります。

表面には「大正十三年一月二十六日」という日付と「宮崎総五」という名前がかろうじて読み取れますが、あとは難しい漢字ばかりで意味がわかりませんでした。
側面や裏側には文字はなく、横に立つ看板には安倍川の歴史が説明されているだけで、石碑に関する説明はどこにもありません。
にむらあつとリポーター:
何の石碑なのかまったくわかりませんね

ヒントはないかと、安倍川の河川敷を歩いている方々に話を聞いてみることにしました。
地元に伝わる「宮崎さん」の記憶
河川敷を散歩していた地元の女性によると、この周辺には昔からさまざまな石碑があるそうですが、この小さな石碑は特に気にしていなかったとのこと。

しかし、話を聞くうちに興味深い情報が浮かび上がってきました。
地元の女性:
この辺りは昔、宮崎さんという大地主さんの土地だったんです
ちょっと待ってください。宮崎という姓は、まさに先ほどの石碑に刻まれていた「宮崎総五」と同じではありませんか。

そのことを伝えると、女性は「あー、ほいじゃあ三角公園!」と、興奮気味に謎の場所を叫びました。
ちょっと落ち着いてもらい、宮崎総五さんについて教えてもらいました。

実は宮崎総五さんは、地元では有名な人物だったようです。
地元の女性:
宮崎さんのお宅と言えば、この辺りでは有名でした。この安倍川橋を作るのにとても貢献された方みたい

地元の人にとって宮崎総五の名は、この地域の発展に欠かせない人物として記憶されていたのです。
三角公園で判明した宮崎総五の偉業
安倍川橋から弥勒の交差点方向に徒歩3分。地元の女性が教えてくれた「弥勒緑地」、通称「三角公園」へ向かいました。
そこには、先ほどの小さな石碑よりもはるかに大きな「安倍川架橋の碑」があるではないですか。

石碑には宮崎総五の名が刻まれていました。
横にあった説明看板には、どんな人物だったかも記されていました。
「宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために明治46年に建てられたもの」

宮崎総五は明治時代の政治家であり、弥勒の名主。弥勒周辺の発展に貢献した人物でした。
江戸時代初期にこの一帯を開拓した宮崎家の人間として生まれた彼は、1874年に私財を投じて安倍川に橋をかけました。

その功績を称えて、彼の死後に安倍川橋のたもとに建てられたのが、あの小さな石碑だったのです。
消えた橋「安水橋」の謎
これで終わりではありません。
さらに周辺MAPを調べていると、安倍川架橋碑と書かれた横に、括弧で「安水橋」の文字が。
しかし今は、安倍川には「安水橋」という名前の橋はかかっていません。

また新たな謎がでてきてしまいました。
この謎を解くため、橋に詳しい静岡市道路計画課の外岡広紀さんに話を聞きました。

「安水橋」とは何のことなんですか?
静岡市 道路計画課・外岡広紀さん:
実は今の安倍川橋がかかる前に、こちらにかかっていた木製の橋になります

外岡さんによると、江戸時代は大きな川に橋をかけることが禁じられていました。
時代は明治に移り変わり、ある人物が私財を投じ、安倍川橋の前身となる木造の橋を作ったのです。

その人物こそ、宮崎総五でした。
宮崎総五が作った木製の橋が「安水橋」だったのです。
外岡さんは「のちに到来する自動車社会にとっても、重要な意味を持つ橋だった」と語ります。
100年を超えても現役!
現在の安倍川橋は、2代目の安水橋を経て、大正12年に完成。2024年7月に開通100年を迎えました。

驚いたことに、安倍川橋は100年前のままの姿。
イギリスから輸入された鋼材は、現在もそのまま使われていて、当時のイギリスの鋼材メーカーの刻印を見ることができます。

静岡市 道路計画課・外岡さん:
100年経ちましたが、大事にメンテナンスしていきますので、この先まだまだ現役で使っていく橋となります
小さな石碑から始まった調査は、地域の偉人の足跡をたどる旅となりました。安水橋から始まり、現在の安倍川橋へと形を変えながらも、宮崎総五の功績はこの地に確かに息づいています。
■スポット名 安倍川橋
■住所 静岡市葵区弥勒2丁目
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