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昔の地図は意外な歴史を語り出す。今回調査するのは、約100年前の静岡市中心部の地図です。地図を片手に、今はなき富士山を望む庭園付き建築や、街中を走っていた路面電車の“名残”を見つけに出かけましょう。
【画像】たっぷり地図を見よう! この記事のギャラリーページへ今も変わらないのは「駿府城跡」
今回の古い地図は1927年(昭和2年)の静岡市中心部の地図です。静岡市文化財課の熊谷すずみさんが解説してくれました。
地図を見てすぐにどこの場所と分かるのは「駿府城公園」です。今と変わらず街の真ん中に鎮座しています。
JR静岡駅がある位置には「しづをか」と書かれた駅の印があり、この位置関係は今も変わりません。
静岡市文化財課・熊谷すずみさん:
他にも変わっていないものとして「町の形」があります。家康が駿府城にいた際に、「駿府九十六ヶ町」という町割をしたと言われていて、その町が今も残っています
他にも、静岡浅間神社の隣には「賎機公園」と書かれていて、賤機山が既に公園となっていたことがわかりました。
現在の静岡中央警察署がある場所も、既に警察署でした。
駿府城に兵舎や刑務所が
今も変わらず残るものがある一方で、すっかり変わった場所も。
大森万梨乃アナウンサーが気になったのは、現在の駿府城公園の中にある「歩兵第34連隊」の文字です。
日清戦争の後に日本が軍備を拡大しようとし、静岡にも旧陸軍の兵舎が1945年まで駿府城跡に置かれていたそうです。熊谷さんによると、いま駿府城の発掘調査が行われている場所では、掘ると上のほうには旧陸軍の名残が出てくるそうですよ。
現在は静岡市葵区東千代田にある静岡刑務所は駿府城公園の南東にあったことがわかります。静岡市民文化会館や中央体育館がある場所です。
古い地図を片手に歩いてみよう
見ているだけでも十分楽しい100年前の地図ですが、地図を片手に街を歩いたら、もっと楽しいと思いませんか。熊谷さんと大森アナウンサーが、100年前の“名残”を探して、街に繰り出しました。
富士山を望む庭園付き御用邸
まずは江川町の交差点から北へ向かって歩きます。右手に見えてくる県庁は、100年前も同じ場所にありました。
驚くことに、現在は17階建ての市役所が建つ場所に、100年前には皇室の宿泊所「御用邸」がありました。
静岡市文化財課・熊谷すずみさん:
ここに和風の二階建ての建物が建てられていました。さらに明治時代の典型的な様式であった芝生に松の庭園があったという記録が残っています
明治33年に建てられた「静岡御用邸」。明治天皇や昭和天皇が、この場所に宿泊されたそうです。
御用邸は静岡大空襲で焼失し、 いまはその姿を見ることはできませんが、実はひとつだけ“御用邸の名残”があります。
明治天皇が庭園の老松の背後に見えていた富士山を詠んだ句が歌碑になって残っていました。
「はるかなる ものと思ひし 不二の根を のきはにあふく 静岡の里」
この時代、御用邸の2階から富士山が見えていたそうです。高い建物がなかった当時の景色は、今とは全く違ったのでしょう。
また市役所前の通りの名前「御幸通り(みゆきどおり)」も、昭和天皇が御用邸に来るために通られたので命名されたと伝わっています。東京駅と皇居とを結ぶ道も「行幸通り」ですよね。
お茶を運んだ路面電車
そんな御幸通りを、さらに北へ。この通り沿いに記されているのが線路のマークです。かつて路面電車が走っていました。
「静岡市内線」は大正11年(1922年)から昭和37年(1962年)まで運行していた電車です。
駿府城のお堀のすぐ脇を通り、区間は現在のJR静岡駅と葵区・安西の全長わずか2kmでした。
この電車、お茶の街・静岡にとって欠かせない存在だったそうです。
静岡市文化財課・熊谷すずみさん:
明治39年に清水港が外国との貿易ができる港として指定されました。お茶が集まる安西・茶町・北番町周辺と清水港とをつなぐ乗り物として引かれました
その名残は、道路の配置に現れていました。中町にあるバス停は、道から突き出してバスの停留スペースがあります。
なぜここだけ建物が奥まっていて、広々としたバス停なのか不思議でしたが、これがまさに電車の停留所の名残なのです。
しかし、他の交通の便が発達して徐々に使われなくなり、茶の輸出量も減ったことが路線の廃止につながってしまったそうです。
昔の地図は、意外な歴史を語り出す。約100年前の静岡市の地図は、お茶の輸出で活気づいていた頃の、静岡の風を感じさせてくれました。
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