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第50回衆議院解散総選挙で議席数を公示前の7から28へと大幅に増やし、躍進を遂げた国民民主党。与党が過半数を割り込んだことで存在感を増しているが、玉木雄一郎 代表と共に注目を浴びているのが榛葉賀津也 幹事長だ。これまでの取材などをもとに、その人となりを紹介する。
イスラエル留学が政治の原点に
榛葉幹事長は1967年4月25日生まれの57歳。
出身は茶どころとして知られる静岡県菊川町(現在の菊川市)だ。
3人姉弟の末っ子で、菊川町長や県議会議員を務めた父・達男 氏の“命を受け”、わずか5歳の時から8年間、毎日牛乳配達を続けたという。
中学生になると野球に打ち込み、キャプテンを任せられると共にレギュラー選手として活躍。
しかし、今夏の甲子園にも出場した掛川西高校に進学するとスタメンの座は遠く、ムードメーカーとして3塁コーチャーが“指定席”だったと笑う。
高校卒業後は国内の大学に進学することなく渡米。
アメリカではオハイオ州のオッタ―バイン大学で政治学を専攻し、学士号を得ると、今度はイスラエルへ。
現地では同世代の若者が兵役に就き、命を落としていく姿を目の当たりにし、日本人として自分自身が何をすべきか自問自答すると同時に政治の重要性を肌で感じ、政治家になることを志したという。
そして、帰国後の1994年1月、菊川町議に初当選。
ただ、1998年1月には菊川町長選に立候補し、新人4人による戦いに敗れている。
得意分野は外交・防衛
国政に身を転じることとなったのは2000年。
当時の民主党静岡県連が翌年に控えた参議院議員選挙に向けて行った公募に応じ、「外交問題に優れている点やこれまでの政治経験からすぐ選挙運動に入れる環境にある」として、20人の中から公認候補予定者の座を射止めた。
2001年の参院選で初当選を果たすと、前述の経歴から中東問題を中心とする外交や防衛が得意分野と自認する通り、旧民主党政権下では防衛副大臣や外務副大臣を歴任。
2020年に旧国民民主党を解党した上で、旧立憲民主党と合流新党(現在の立憲民主党)を立ち上げる方針が決まった両院議員総会の際には、当時の玉木代表を激励するかのように肩を二度三度叩く姿がカメラに捉えられていて、この時すでに新党への不参加を表明していた玉木代表に追随する覚悟を決めていたのだろう。
その後、「私が今の国民民主党のアイデンティティを引き継ぐ政党から離れる理由はまったくない。新国民民主党は今の国民民主党の理念・政策をそのまま引き継ぐ政党なので、私は引き続きその政党に残りたい」と話し、現在の国民民主党の旗揚げに参加。
結党以来、4年あまりにわたって幹事長として玉木代表を支えている。
天性の“人たらし”
榛葉幹事長の特徴は天性の“人たらし”ぶりだ。
会見では真剣な表情で話をしていたかと思えば、突如としてジョークを飛ばし、記者“イジリ”も忘れない。
仮に自身と相反する考えの質問をぶつけられても頭ごなしに否定することはなく、ユーモアを交えながら自らの主義・主張を返す。
こうした様子はいわゆる“切り抜き”によってSNS上に拡散され、今回の衆院選でも応援演説に駆け付けると、集まった聴衆から「会見の動画を見ています」と声を掛けられる場面が目立った。
この人たらしぶりは国会の場でもいかんなく発揮されていて、党派を超えて良好な関係を構築している与党の大物も少なくない。
ヤギと酒とプロレスを愛し
一方、ひとたび国会を離れれば“ヤギのおじさん”としても有名だ。
これは菊川市の自宅でヤギを飼育し、近所の子供たちからこう呼ばれていることに由来する。
聞けば今から8年ほど前、多忙により畑の草刈りに手を焼いていた際、「ヤギが草を食べてくれる」と知人に教えられたことから飼育を始めたという。
なお、今では5頭に増え、草をすぐに食べてしまうため、榛葉幹事長がエサとなる草を刈って与えてあげるというパラドックスが生じている。
また、無類の酒好きで、休みの日であれば1日に一升瓶を2本飲み干せるという酒豪ぶり。
夏前には健康診断の数値が悪く、「医師から『酒を止めるか、人生を止めるか』って言われちゃったよ~」と笑いながら、その手には焼酎の水割りが入ったグラスが握られていた。
しかし、党のYouTubeチャンネルでは「実は酒が好きではない。酒が私を愛している」と主張。
ちなみに、数値はその後改善されたそうだ。
さらにプロレス好きの一面もあり、初代タイガーマスク・佐山サトル氏が率いるプロレス団体のコミッショナーを務めている。
いわゆる“年収103万円の壁”の見直しをめぐって自民党との攻防が本格化する中、国民民主党がどのような成果を残すのか。
玉木代表と共に硬軟併せ持つ榛葉幹事長の手腕が注目されている。