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【昔の地図】静岡銀行の約100年前の名前は「三十五銀行」だった 地図を片手に歩いたら

昔の地図は意外な歴史を語り出す。今回は約100年前の静岡市中心部の地図を片手に、現地を歩いてみる企画の第二弾です。みなさん100年前の地図にはどうして静岡銀行が「三十五銀行」と書かれているか、わかりますか?

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静岡銀行の昔の名前は?

今回も1927年(昭和2年)の地図を片手に現地を歩き、歴史を学んでいきます!

案内してくれるのは、静岡市文化財課の森山郁真さんです。

御幸通り(みゆきどおり)を左折して、本通(ほんとおり)にやって来ました。

ここで歴史を感じさせる大きな建物と言えば、静岡銀行です。石造りで古代ギリシャの神殿を思わせる円柱が圧巻です。

1931年に中村與資平の設計で建てられた静岡銀行。

県庁の本館や静岡市役所も中村與資平の設計です。静岡市の街並みに、とても影響を与えている人ですね。

さて、1927年の地図でもこの場所は銀行でした。しかし「静岡銀行」ではなく、「三十五銀行」と書かれていました。

現在の建物にも「旧静岡三十五銀行本店」と書かれています。

(静岡市立中央図書館所蔵)
(静岡市立中央図書館所蔵)

約100年前、この場所には静岡銀行の元となる「三十五銀行」という銀行があったのです。

では、三十五というのは何の数字でしょうか。

静岡市文化財課の森山郁真さん:
国立銀行条例に基づいて、全国に民間銀行が立ち上がりますが、その中で35番目にできた銀行だからです

正解は銀行ができた順番でした。今でも東北には七十七銀行が明治時代の名前のまま営業を続けていますよ。

「札之辻」という名前は賑やかな証拠

さて、ここからは呉服町通りをJR静岡駅の方向に進んでいきます。

昔の地図で呉服町通りを見てみると「呉服町」という名前のとおり、洋品店や呉服店が多いのがわかります。

(静岡市立中央図書館所蔵)
(静岡市立中央図書館所蔵)

また100年前から残る、「札之辻(ふだのつじ)」という地名。七間町通りと呉服町通りの交差点は、今でも「札之辻」と呼ばれています。

同じような名前の場所が全国各地に残っているそうで、その由来はまさに「札」にあります。

いったいどんな「札」がこの場所にあったのでしょうか。

森山さんに案内されて向かった先には、大きな木札「高札(こうさつ)」がありました。

高札が掲げられる場所、高札場があったので「札之辻」と呼ばれたのです。

高札には幕府や藩の定めた決まりごとが書かれていたそうです。

復元した高札場

静岡市文化財課の森山郁真さん:
「みなさん仲良く暮らしましょう」とか、「盗みやばくちはいけない」とか、社会的な道徳が全国各地の高札場に掲げられていました。そうした場所には「札」がついた地名が残っています

高札場は人がたくさん集まり、目に留まる場所にありました。ですので「札之辻」は今も昔も変わらず賑わっていることが多いそうです。

地図にある店を発見 ハンパない歴史!

そんな呉服町をさらに歩いていくと、今も100年前の地図に書かれた名前のまま存在しているお店を見つけました。

竹茗堂(ちくめいどう)」は、1781年創業の静岡茶の老舗。もちろん地図が作られた1927年には、既にこの場所で営業をしていました。

約100年前の地図に載っていますよとお店の人に伝えると「創業から240年経っていますから」とのお答えが。なんと、江戸時代から静岡のお茶の歴史を創り続けてきたんです。

江戸時代は呉服町ではなく七間町にありましたが、鉄道ができるということで、駅に近い呉服町に移ったそうです。

静岡市街地で起きた度重なる火災や戦争で、多くのものが焼けてしまいましたが、竹茗堂には、古くからの品が大切に保管されているそうで、江戸時代のお品書きを見せてもらいました。

そこには「青仕立」と書かれているのですが、それまで茶色だったお茶を、緑色にする製法は竹茗堂が静岡に初めて導入したのです。

「青仕立」を静岡に初導入した竹茗堂

1892年(文政12年)のメモ帳まで残っていて、「青茶製法」の文字があります。

表に飾られている大きな「御茶所」の看板も、なんと江戸時代からずっと使われている非常に貴重なものでした!

この看板は変わらぬ場所で、この商店街のこともずっと見守り続けているんです。

今回は約100年前の地図を見ながら歩いたら、200年以上前のことまで、わかっちゃいました!

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