目次
事件の発生から58年あまりが経過した“袴田事件”の裁判をやり直す再審公判は、いよいよ9月26日に判決が言い渡される。とはいえ半世紀以上前の出来事のため、事件の名前は知っていても概略を知らないという人も少なくないだろう。
家は全焼 焼け跡から4人の他殺体
1966年6月30日未明。静岡県清水市(現在の静岡市清水区)にある味噌製造会社の専務宅で火災が起きた。
焼け跡からは多数の刺し傷がある一家4人の他殺体が見つかったほか、多額の現金や小切手なども盗まれていたことも発覚。
警察は、現場や遺体の状況から会社の内情に詳しい人物による犯行との見方を強め、聞き込み捜査などを進めた。
そして、事件発生から49日後の8月18日。味噌工場の従業員であり、元プロボクサーの袴田巖さん(当時30)が逮捕された。袴田さんは当時、現場近くの従業員寮に住んでいて、アリバイがなかったことに加え、肩や手にケガをしていたこと、押収されたパジャマから微量の油と本人とは別の型の血液が検出されたことなどが理由だ。
人権無視 真夏の過酷な取り調べ
袴田さんが犯行を否認していたためか、捜査当局による取り調べは苛烈を極めた。1日10時間を超える取り調べは実に20回を数える。
取り調べ室でのやり取りを録音したテープには、捜査員が「逮捕状の事実を認めろ」「お前がやったことに間違いない」「頭下げなさい、袴田」と迫る様子が残っているほか、捜査本部の会議記録には「取調官は確固たる信念を持って犯人は袴田以外にない。犯人は袴田に絶対間違いないということを、袴田に強く印象付けることに努める」との記載もある。
また、袴田さんが「小便に行きたい」と伝えると、驚くべきことに捜査員は別の捜査員に「便器持ってきて」と告げ、その場で用を足すよう指示していたことも音声記録からわかる。
もはや人権など無きもの同然に扱われ、心身ともに限界に達した袴田さんは逮捕から19日後の9月6日、勾留期限が目前に迫る中で“自供”を始め、9月9日に住居侵入・強盗殺人ならびに放火の罪で起訴された。
公判中に“なぜか”発見された新証拠
ただ、11月15日から始まった裁判では自供は強制されたものとして一貫して無罪を主張。それを裏付けるように犯行時の着衣とされたパジャマには誰の目にも大きな違和感があった。仮に4人に多数の刺し傷を負わせたのであれば相当量の返り血を浴びることになる。にもかかわらず、付着した血痕はごくわずか。肉眼での確認が難しいほどだった。
事態が暗転したのは裁判が始まって10カ月後。検察側は突如として“新たな証拠”を持ち出す。
事件直後に警察が徹底的に捜索したはずの味噌樽の中から、大量の血痕の付いた衣類5点が見つかったというのだ。とはいえ、この“新証拠”にも不可解な点があった。それはズボンには少量の血痕が付着していたのに対して、その下に履くはずのステテコには大量の血痕が付いていた。これではズボンの上からステテコを履いていたか、直前にズボンを近くに脱ぎ捨てた後、ステテコ姿で犯行に及んだかの、いずれかになってしまう。
袴田さんは「自分のものではない」と訴えたものの、静岡地裁は1968年9月、検察が示した“5点の衣類”を決定的な証拠として死刑を言い渡した。一方で判決文には「本件捜査に当たって、捜査官は、被告人を逮捕して以来、専ら被告人から自白を得ようと、極めて長時間に亘り被告人を取り調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠った(中略)本件ごとき事態が二度と繰り返されないことを希念する余り敢えてここに付言する」とも記している。
控訴も上告も棄却 弁護団が再審請求
判決に到底納得のいかない袴田さんは言うまでもなく控訴。二審では、“5点の衣類”の装着実験が複数回行われたが、袴田さんにはズボンが小さすぎてどうやっても履くことが出来なかった。それでも、検察側は獄中生活で太ったことが原因と反論した。
東京高裁もまた、犯行当時はズボンを履けたものと推定し控訴を棄却。さらに最高裁が上告を棄却したことで1980年11月、袴田さんの死刑が確定した。
死刑が確定すると間もなく日本弁護士連合会は「袴田事件委員会」を設置。弁護団も1981年、裁判のやり直しに向けて動き出した。
といっても、再審はかつて“開かずの扉”と言われただけにハードルが高く、インパクトのある新証拠が必要となる。そこで弁護団は犯行現場の裏木戸に着目した。この裏木戸は、袴田さんが「専務宅への出入りに使用した」と検察側が主張しているものだが、原寸大の木戸を再現し検証したところ、人が通ることは出来なかった。
しかし1994年8月、静岡地裁は再審請求を棄却。東京高裁も、最高裁も裁判のやり直しを認めなかった。
地裁が再審決定も…高裁は破棄 しかし
それでも弁護団が諦めることはない。2008年、再び裁判のやり直しを請求。この中で、最大の焦点となったのがDNA鑑定だ。“5点の衣類”に付着した血痕を調べたところ、被害者のものとも、袴田さんのものとも確認出来なかった。
2014年3月。静岡地裁は“5点の衣類”について「袴田のものでも犯行着衣でもなく、後日ねつ造されたものであったとの疑いを生じさせる」などとして再審を決定。さらに「これ以上拘置を続けることは、耐え難いほど正義に反する」とまで踏み込み、袴田さんは釈放された。
ところが4年後。検察側の抗告を受けた東京高裁が「弁護側のDNA鑑定の方法について
科学的原理や有用性に深刻な疑問があり信用できない」として、静岡地裁の決定を取り消す判断を下す。
開きかけた扉はまたしても閉ざされたように思われたが、今度は弁護団の特別抗告を受けた最高裁が「有罪の証拠となった犯行時に着用したとする衣類に付いた血痕の色の変化について、専門的な調査が必要なのに審理を尽くさなかった」と指摘し、高裁で再び審理するよう命じた。これが2020年12月の出来事だ。
検察側が特別抗告を断念し再審開始へ
差し戻しの審理で争点となったのは、有罪の決め手とされた“犯行着衣に付着した血痕の色の変化”だった。検察側が「赤みが残る可能性はある」と主張したのに対し、弁護団は「長期間、味噌に漬かっていれば血痕は黒くなる」と反論する中で、東京高裁は2023年3月、「赤みは消失すると推測される」と結論付け、加えて「犯行着衣であることに合理的な疑いが生じる」「第三者が味噌漬けにした可能性がある。捜査機関による可能性が極めて高い」とした。
そして、検察側が特別抗告を断念したため、ついに再審開始が確定。この時、事件の発生から実に57年近くの時が経過していた。
ついに重い扉が開かれた
2023年10月27日。
静岡地裁は朝から喧騒に包まれ、わずか26席の傍聴券を求めて280人が列を作った。
だが、その騒々しさとは裏腹にいつもと変わらぬ様子だったのが袴田さんの姉・ひで子さんだ。
自宅を出ると待ち構えていた報道陣を前に、「やっと始まる。57年闘ってやっと再審開始になった。裁判って私初めて。だけど、別にびくともしゃくともしていない」と笑ってみせる。
法廷に響いた魂の叫び
再審公判をめぐっては、國井恒志 裁判長が袴田さんについて「心神喪失の状態にある」として出廷を強制しないという異例の判断をしていて、起訴内容を認めるかどうかの罪状認否は補佐人であるひで子さんが担った。
「1966年11月15日、静岡地裁の初公判で弟・巖は無実を主張致しました。それから57年にわたって、紆余曲折、艱難辛苦ありましたが、本日、再審裁判で再び弟に代わりまして無実を主張致します。長き裁判で裁判所並びに弁護士、及び検察庁の皆様方には大変お世話になりました。どうぞ、弟・巖に真の自由をお与えくださいますようお願い申し上げます」
法廷にひで子さんの魂の叫びが響く。
争点は“5点の衣類”
続く冒頭陳述では、検察側が“5点の衣類”は袴田さんが犯行時に着用し、味噌樽に隠したとして改めて有罪を主張した。
これに対して、弁護側は「警察が長時間の取り調べにより自白させ、自白に合わせた証拠を捏造してきた」と真っ向から反論。
58年の重みからか再審公判は証拠調べに時間を要し、この日から結審までは15回を数えた。
15回目の公判となった論告・弁論では、検察側が「捏造はどう考えても実行不可能で非現実的」と述べ、心神喪失と認定された袴田さんについて「被害者4人が無残に殺害された事件であり、被告人の事情は量刑を変更させるものではない」と死刑を求刑。
一方の弁護側は「“5点の衣類”は何者かが袴田さんを犯人に仕立てるために捏造したものであり、そうした動機があって実行できたのは警察しか考えられない」と踏み込んで見せた。
ひで子さんもまた、閉廷後に「弁護士の反論はすばらしく良くて、これで勝ったようなもの」と自信をのぞかせている。
運命の日を前にひで子さんは9月24日、報道陣の共同取材に応じ、「58年闘っていますから、ごくごく平常心でございます。普段と変わらない」と心境を明かしたうえで「もちろん無罪判決を望んでいます。だけど、裁判ですから決定を聞いてみないとわかりませんから、今は何とも言えません」と述べた。
日本の司法制度において死刑判決が確定した事件をめぐる再審は過去4例しかない。それも、過去4例はいずれも無罪判決が出されている。
だからこそ、ひで子さんは「今は何とも言えません」と口にしつつ「(袴田さんが)死刑囚でなくなることが一番大きい。今でも街中を歩いていますが、それでも死刑囚なんです。だけれど、死刑囚でなくなって街中を歩くのはまた違うと思う」と前を向いた。
こうした中で静岡地裁は今回どのような結論を導くのか…特に弁護団が「捏造」と主張する”5点の衣類”について、どのような見解を示すか注目されている。
再審判決公判は9月26日午後2時に開廷し、午後5時に閉廷する予定だ。