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静岡県浜松市の遺族会が市内の戦争遺跡を集めた冊子を作った。その中には空爆で中心部が焦土と化しながらも奇跡的に生き残ったプラタナスの木がある。冊子を作った遺族会の担当者は「今も残る傷をみて子供たちに考えてほしいことがある」と話す。
戦死した父の手紙を通じ語り部に
2024年8月1日、戦争の悲惨さや教訓を子供たちに伝えてもらおうと静岡県浜松市の復興記念館で中学校の教員を対象とした講座が開かれた。
主催したのは浜松市遺族会だ。
終戦当時、まだ1歳だった富田健太朗副会長(81)。
戦争の記憶はほとんどないが、戦地に赴き引き揚げの途中で命を落とした父からの手紙を通じ、語り部としての活動を続けている。
活動を続ける中で富田副会長が注目したのが市内に残る戦争遺跡だ。
一般に知られていないものや航空自衛隊や企業の敷地内にあるものも含め、慰霊碑や陸軍の墓地跡地など25カ所について、自ら撮影と説明文の執筆を担当し冊子にまとめた。
浜松市遺族会・富田健太朗 副会長:
展示の資料だけだと後に残らない。1回行ってきれいに写真が撮れないともう1回行くということで、(冊子の完成に)2~3カ月かかりました
戦争のイメージがつかめる
一体どんな戦争遺跡が残っているのか…富田副会長に案内してもらった。
まず向かったのは浜松市中央区半田町の幹線道路沿いだ。大通りに面した場所にひっそりと遺跡はあった。「トーチカ」だ。
トーチカとは敵機の襲撃を監視する防衛陣地で、敵機が接近してくると穴から銃口を向けて攻撃する。
太平洋戦争末期、本土決戦を想定した旧日本軍が三方原飛行場を守るために作ったが実際に使用されることはなかった。
浜松市遺族会・富田健太朗 副会長:
こういう形でしっかり残してもらうと、戦争を知らない人たちが戦争とはどんなものだったかイメージをつかむことができると思う
80年余り経っても当時のまま
続いて三方原飛行場があった中央区豊岡町に行ってみると、「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる戦闘機を格納する格納庫が残っていた。横に民家が建っているが、「国から払い下げを受けて、後から家を建てたのだろう」と富田さんは説明する。
「掩体壕」と呼ばれるこの施設は、戦況が厳しくなった1942年に飛行場にある戦闘機を守るために作られた。
富田さんは「よくできている。コンクリートもきれいに残っている。堅牢にできているという言葉がぴったり」と頑丈なつくりに感心する。
この掩体壕は重機などを使わず人の力だけで作ったと言われていて、富田さんは「80年以上経った今も当時のままの形で残されていることに価値がある」と話す。
浜松市遺族会・富田健太朗 副会長:
本当に生々しい、昔のままの姿が残っている貴重な遺跡。こういうところを紹介して、「まだ残っているんだよ」と伝えるのは大切なこと
空爆を生き残った木が訴える
最後に案内してくれたのは浜松市中央区の緑化推進センターにあるプラタナスの木だ。空襲を生き残った3本のうちの1本だという。
1945年6月18日、焼夷弾の波状攻撃により1万5000棟あまりの家屋が全焼し、1717人が死亡した浜松大空襲。
浜松の街が焦土と化す中、奇跡的に生き残ったのがこのプラタナスの木だった。
富田さんは「浜松の空爆ではひどい被害があったが、その証がほとんど残っていない。この3本のプラタナスは非常に貴重な戦争遺跡で、戦争の証を皆さんに知ってもらえる木ではないか」と話す。
当時は浜松市の中心街の通称・御幸通りに植えられていたが、現在は緑化推進センターやJR浜松駅前などに移植された。生々しい傷は今も残っている。
浜松市遺族会・富田健太朗 副会長:
当時は小さな木で傷も小さかったと思うが、木が大きくなるにしたがって傷も大きくなって、その痕跡は大きくなっても残っていて、木が訴えているのがわかるのではないか。空爆による傷があるから「戦争は絶対にあってはならない」ということを言っているのではないか
時代と共に無くなってゆく戦争遺跡。
それでも次の世代に語り継ぎ、平和について考えるきっかけにしてほしい。
それが富田さんの願いだ。
浜松市遺族会・富田健太朗副会長:
知ってほしいというか、忘れられないように残したい。これから平和な世界を続けるために、戦争を起こさないためにはどうするかを考えてほしい
終戦から79年。
戦争体験者の高齢化が進む中、私たちもこうした身近な遺跡などから戦争を知り次の世代に語り継いでいかなくてはならない。